デジタル印刷やオフセット印刷が主流の印刷業界で、あえて活版印刷に参入したTAP。その前身がウェブデザインの会社であったのは、時代の潮流に逆行するようで非常にユニークではないだろうか。「私たちのルーツはデジタルワールドにあり、ウェブデザイナー、写真家、ビデオグラファーとしてのスキルを持っています。高速デジタルの世界から、技術的に後退していると誤解されているものにシフトすることは、本当に最高でした。」とクリフさんは愉快そうに話す。
創業者の一人、Cliff Leong(クリフ・レオン)氏
クリフさんとジージェイさんは、同じマルチメディア大学で友人となり、卒業後の2006年、webデザインのベンチャー企業Form & Function(FF)を立ち上げた。手がけていたのは企業のロゴやサイトなど、コーポレート・アイデンティティ(CI)のトータルデザイン。特に名刺は、企業や個人の第一印象を決める重要なツールであり、特別な付加価値を込めたいと、その何かを探し求めていた。
ある時、活版印刷で名刺を作りたいという依頼があった。ところが、国内の複数の印刷会社に問い合わせても、活版印刷を手がけているところはない。かつてのマレーシアでは、工芸品のように繊細な活版印刷が盛んだったが、高齢化が進み後継者もなく活版印刷は古い文化のまま廃れていたのだ。
ようやく活版印刷ができる印刷会社をタイのバンコクで見つけたが、見積もりを依頼すると驚くほど高額だった。その時は諦めたものの、別の機会にバンコクできれいな活版印刷のカードを見かけ「やはり活版印刷で名刺を作りたい。国内で刷れないなら、自分たちで作ればいいのではないか」というアイデアが生まれた。
「クリエイティブ性を高めることは、常に私たちのテーマです。自分たちがデザインした製品を自ら活版印刷を使って作れば、さらに創造的なものに仕上げられるはず。そのアイディアを思いついた時には最高の気分でした。」
その後、リサーチを続けること3年間。廃業寸前の印刷会社で、一台の活版印刷機と巡り合う。年配のオーナーは、当初活版印刷機を購入したいという彼らの申し出に、まったく聞く耳を持たなかった。約2カ月間を費やしてオーナーを説得しその努力が結実した時、30年以上も現役で活躍し、生き残った一台が彼らの手元にやってきた。
活版印刷を始めた頃のTAPの工房。奥の壁には「活版再生」の文字が見える。
「念願の活版印刷機が手に入り新たなビジネスに漕ぎ出せたものの、当時のマレーシアには、活版印刷機についての技術も知識も、機械やインク、高品質な紙、すべてが不足していました。特に機械の扱いは難しく、デジタル印刷と比べると時間もプロセスも倍以上かかります。また活版のインキは、3〜4つの基本色を調合して何百万もの色を表現するのですが、正確な色合いを実現するためにはノウハウと経験が必要です。私たちには師が必要だったのです。」
そこでマレーシアの国外で活版印刷のワークショップを探すことになった。活版印刷のトレンドを築いた有名人といえば、アメリカのマーサ・スチュワートをおいて他にない。彼女は、自身の『マーサウエディング』という雑誌で、たくさんの活版印刷の招待状を紹介し、その魅力が世界中へと広がっていったのだ。そのため業界では、ニューヨークのワークショップが有名であったが、マレーシアからは遠くコストもかかり手が届かない。そんな折り、オーストラリアのメルボルンで開催されるワークショップを偶然発見したのだという。
メルボルンの活版工房(Idlewild Pressにて)
「私たちを突き動かしていたのは、強い好奇心でした。メルボルンの工房Carolyn of Idlewild Press(アイドルワイルドプレス)を訪ね、そのオーナーのキャロリンから、活字を組み合わせる伝統的な手法とトレンドとしての活版印刷を数週間に渡って学びました。こうして、アナログな活版印刷を現代風にアレンジし複雑でユニークな名刺や招待状をオーダメイドできるブランドとして、2011年にTAPが誕生したのです。」
マレーシアの文化をエッセンスに仕上げたポストカード。右はマレートラのカード。絶滅危惧種の動物をモチーフにしたものも多い。
The Alphabet Pressというブランド名は「すべてのアルファベットが活版印刷の基本」だという信念が込められている。そもそもマレーシアは、マレー系、中華系、インド系などから成り立つ他民族国家で、公用語であるマレーシア語と英語に加えてルーツの民族の言葉も話す。そのため、活版印刷もまた多言語であり複雑なのだ。
たとえば中華系であれば常用文字が約5000字、マレー語や英語のアルファベットも含め、それぞれの文字の数だけ活版印刷用の凸形の版(活字)が作られる。これらの活字を手動で組み合わせて本に載っているすべての単語を表現するのだと知ると、気が遠くなるのではないだろうか。彼らはこうした自国の他民族国家ならではの活版文化に大いに感動し、The Alphabet Pressと名付けた。
TAPは、衰退の一途をたどるマレーシアの活版印刷の文化を継承し、工芸品のような活版技術を復活させることに情熱を注いでいる。クリフさんが、今でも仕事の合間をぬって、マレーシア各地に点在する活版工房を訪れ経営者から活版についてのアドバイスを得ていると知れば、その情熱をうかがい知ることができるだろう。時には店じまいする活版工房を訪問して、その片付けをボランティアで行うこともある。
「マラッカの印刷工房で閉店の片付けを手伝った際、たくさんの活版印刷機の部品を譲ってもらいました。私たちにとっては宝物ですね。また、工房の経営者たちへのヒアリングから、活版の世界はまだまだ知らないことばかりで奥深い文化だと気づかされます。」
マレーシア国内にある古い印刷工房でのボランティアは今でも行っている
昔ながらの印刷所では活版印刷用の活字が今でも所狭しと並ぶ
故きを温ねて(ふるきをたずねて)新しきを知る一方で、ビジネス戦略として新たな購買層の開拓にも余念がない。マレーシアは、そもそも活版印刷の魅力を知らないマーケット。まず、クアラルンプールのモールや大型書店で活版印刷にまつわるトークショーやワークショップを行い、その魅力を発信することから始めた。多くの若い世代が興味を持ってくれたのだという。
さらにTAPのサービスは、既製品の販売とオーダーメイドの活版サービスの二本柱だが、いずれも常に魅力的で視覚的なコンテンツ制作に注力している。
「私たちは、ウェブデザインをなりわいにしてきたので、お客様とTAPをつなぐ双方向型のインタラクティブコンテンツ*1の重要性を理解しています。例えばインスタグラムは、デザイン性の高いカードや名刺を魅力的な写真で紹介することはもちろん、仕掛けのあるカードをストップモーションアニメで紹介したり、印刷の工程を早回しで紹介する動画を掲載してお客様の関心を高めています。それらをただ視聴するだけではなく、タップすることで商品情報や次のストーリーへと誘う。動的なコンテンツ作りを心がけていますね。
魅力あふれるコンテンツで心をつかみ、実際にカスタマイズのご依頼をいただいたら、お客様のニーズと期待に応えられるように、1対1のコンサルティングを行います。さらに印刷の途中で、お客様に立ち会ってもらいその仕上がりを見学します。これはカスタマーエクスペリエンス*2の一環で、活版印刷の複雑な工程や手の込んだ仕事を見せることで満足感を与え、完全にパーソナライズ*3された活版製品をお届けできるのです。」
オーダーメイドの活版製品のうち、約7割はウエディングと名刺の需要である。特にマレーシアにおいて、ウエディング市場は大きい。マレー系は、カップル一組当たり平均で250〜500名、中華系は、100〜200名のゲストを招待する。日本の都心では100名前後のゲストが定番なので、日本の市場と比較するとかなり大きなマーケットだとお分かりいただけるだろう。
中華系のウエディングの招待状。受け取った人が手元に残しておきたくなるようなデザイン。
こうした大きなマーケットに、競合はいないのだろうか。
活版印刷には、紙の断裁、インクの練り(調肉)、機械のメンテナンス、印刷技術そのものなど、あらゆる高度な職人技を要するので、競合が参入しにくい。さらに高品質な紙やインクを輸入する必要があり、一般的な印刷物と比較すると仕上がりまでのプロセスに時間と費用がかかる。ただその苦労の末、仕上がる印刷物はとても美しいもので同業者からも感嘆の声があがるのだという。
TAPが手がける既製品のポチ袋。マレー系はRaya(左)、中華系はAng Pao(右)と呼ぶ。
日本同様に、正月にお年玉を入れて配る。それぞれの民族の伝統色やデザインを盛り込んでいる。
クリエイティブ性を高めることを目指したTAPが、廃れつつあった活版印刷の文化を復活させ次世代へと継承することに成功したことは、彼らのもとに届く声からも分かる。
「あるお客様が、印刷の仕上がりを見学して『素晴らしい仕事とサービスを目の当たりにしました。これからも素晴らしい商品を生み出してください』と嬉しい言葉をくださいました。私たちは、自分たちの手で製品を生み出すことを楽しんでいますし、その製品が人々に喜びをもたらすのを目にしています。それがなによりも励みになります。」
2011年の創業以来、オーダーメイドの活版製品を手がけてきたTAPが、パーソナライズされた文房具の魅力に気付くのに、それほど時間はかからなかった。成功に不可欠な『カスタマイズ』をテーマに、何を商品化すべきか模索し、2016年にTAPの姉妹ブランドana tomy(アナトミー)のビジネスモデルを閃いた。
ana tomy…女の子のanaと、男の子のtomyという典型的な名前を連想させ、親しみやすさを感じさせるブランド名には、解剖学という意味合いもある。
一冊のノートを、表紙のデザインや、内側のページの紙、留め金の色、しおりひも、ゴムひも、名前の刻印など、いくつもの要素に分けてその全てを自由に選んで設計できるのだ。表紙やページ紙の種類も豊富だ。それに加えて様々な部品を自由に組み合わせれば、選択肢は無限大。顧客は、ana tomyのサイトのシミュレーションで、無数に組み合わせてイメージを膨らませる。
ana tomyのカスタムノートは佇まいが美しい。様々なパーツを選んで自分らしい一冊に仕上げることができる。
さらに、ana tomyのリアルショップに足を運べば、紙の質感や手触りを確認してその場で注文が可能だ。名入れも含めて15分程度待てば完成するというのも、手軽でありがたい。
クリエイティブなお店が出店しているThe Zhongshan Buildingにあるana tomyのショップ。実物を見ながらカスタムノートを注文できる。
「ana tomyのアイデアは、シンプルですが、独創的です。お客様は、最初から設計プロセスに関わり、ノートを通じて趣味や嗜好、自分自身を表現することでしょう。完全にカスタマイズされたオーダーメイドのTAPと比べると、ana tomyはマスカスタマイゼーション*4のコンセプトを実現し、セミオーダーで手軽に自分だけの一冊を作ることができるのです。」
さらにSNSを活用して、インフルエンサーやトレンドセッターとのつながりを作り、数量限定のデザインを次々と実現。今しか購入できないという付加価値が、ana tomyのセミオーダーノートを魅力的なものにしている。「今後も、自己実現に情熱を傾けている方々とコラボレーションしたいですね。」
これからについて
「新たな取り組みとして、国内外のアーティストとコラボレーションしたアートプリントを模索しています。アートプリントとは、上質な紙に高度な印刷技術を用いた原画やアート作品の印刷物で、観賞用として額に入れたりポスターのように壁に貼り、長期間保管されます。今後、こうした価値のある印刷物づくりに力を入れていきたいですね。」
「伝統工芸の活版印刷は、今後ますますニッチな隙間産業になっていくでしょう。けれど美しいプロセスが魅力の活版印刷を、私たちは受け継ぎ、誰もが毎日使うことができる商品として復活させ、そして作り続けていきたいと思います。」
Q. 起業家であることの好きな側面は?
それは達成感です。私はまだ全力を尽くしていませんし、余力があることを楽しんでいます。「次に何を作ろうか」と常に考えて、前進していたいですね。
Q. 東南アジアでの起業家の傾向は?
東南アジアは、比較的若い世代で起業する傾向があります。自分ひとりで資金を工面するのが難しい時は、家族が支援することも。欧米では、資金繰りも含め、着実に準備してから起業する人が多いようですね。私たちが、TAP事業を始める時の資金は、その大部分が自己資金でした。「マレーシアの活版印刷の文化を継承し、復活させたい」という私たちの使命を、信じて、支えてくれる友人や家族に感謝しています。
Q. TAPが実践する、環境に優しい取り組みについて教えてください。
TAPでは、環境問題を常に意識しています。活版印刷で使用する紙は、森林認証済の高品質なもの。木材を含まない、綿100%のコットンペーパーを使用しています。インクは、環境に優しい水性の大豆インクを使用。余った紙は、リサイクルします。またアップサイクル*5な取り組みとして、廃棄する運命にあった活字を使い、カードゲームを作成しました。
Q. 危機的な状況に陥ったことはありますか。
コロナ渦において、今がまさに私たちにとって、挑戦的な時期です。主力のウエディング用の印刷物は、ほとんどオーダーストップになっています。このように不確実な時こそ、ビジネスモデルを考え直し、適応する必要があります。
現在、活版印刷の製品を、より多く作ることに方向転換しています。また自社のオンラインストアでは、従来のウエディングではなく、企業ブランドを向上させるための、ビジネスステーショナリーに特化したサイト作りへとシフトしています。
Q. ブランディングについて、大切にしていることは何ですか。
私たちにとって、ブランドを構築するには、左脳(論理)と右脳(創造、感情)の両方の感覚が必要です。戦略的で論理的な視点において計算し尽くされたビジネスも、感性に訴えるデザインの素晴らしさも、どちらも大切ですよね。
Q. 羽車との関係性について教えてください。
羽車とは、シンガポールにある同業のコミュニティからの紹介で知り合い、その後お互いのビジネスや取り組みについて情報共有をする仲です。2019年の秋には初めて羽車の大阪本社へ伺いました。これからも、環境やコミュニティとの繋がりを大切にしながら、共に活版印刷やステーショナリーの魅力を広げていければと思っています。
Q. 週末はどのようにして過ごしますか。
週末は、私にとって個人的な探求の時間です。友人や家族と過ごすことで、インスピレーションを得るのが好きですね。
Q. 趣味は何ですか。
車で巡る旅(ロードトリップ)、コーヒー、音楽です。時折週末に、長距離を運転して、好きな音楽をかけ、そして一緒に美味しいコーヒーを飲みます。マレーシア国内を車で出かけると、私たちのルーツや文化の魅力に気づきます。そして私の何気ない日常が、どれほど幸せであるか、再確認できるのです。
Q. 好きなアーティストを教えてください。
イラストレーターのAgathesorlet。私は、彼女のシンプルなアプローチが好きです。彼女のイラストには、様々な人との関係が描かれています。人を通して、複雑で謎に満ちた人生を描写しています。
Q. ご自身の性格を3つの言葉で表現すると?
奇妙で。冒険的。正直。
The Alphabet Press(TAP)
thealphabetpress.com
Instagram @thealphabetpress
The Alphabet Press(TAP)は、マレーシアを拠点とするオーダーメイドの活版印刷のブランド。プレミアムな結婚式の招待状、名刺、企業の印刷物、既製の印刷物を、1950年代のヴィンテージの活版印刷機で製作する。現代の工業プロセスの効率を備えながらも、伝統的な工芸品の職人技を継承した、質の高い紙製品には東南アジア圏の著名人のファンも多い。
ana tomy
82G, Jalan Rotan Jalan Kampung Attap, Kuala Lumpur 50460 Malaysia
ana-tomy.co
Instagram @anatomy_co
TAPの姉妹ブランド。『カスタマイズ』がテーマのノートブックを提供している。表紙の色や内側のページの紙、留め金の色、名前の刻印など、様々な部品を自由に選んで自分だけの一冊が作れる。ana tomyのテイストに合わせて、地元で作られた製品や世界中で集めた文具も取り扱う。文房具やギフトのカスタマイズの喜びを体験できる場所として地元で愛されているショップ。